一人未満


"Na Na Na" by Theresa Andersson

 

 

 

 

 

『旅』という言葉を口にするのは少々気恥ずかしい。何せ私は旅の素人なのだ・・・。去年は富山、宮崎に出かけることが出来た。何の脈絡もない思いつきの友人再訪の旅だった(そのはずだった・・・)。出発するときは確かに『友人再訪』という目的があったのだが帰ってみると明らかに目的は他の物にすりかわっていた。『一人』を愉しんで来たとでもいえようか。友人と旧交を温めはしたがむしろ自分自身と旧交を温めたことの方が大きかった。普段の日常生活は忙しく毎日同じことばかりを反復している。『慣れ』という物は恐ろしいもので次第にその反復に溶け込み、よりかかり、不平不満を口にしつつもそれ以外の世界に出ることが億劫になりその場で固まってしまう、いや!それ以外の世界に対して盲目になってしまう。そしてその反復の中で自分自身と対話することをなおざりにしてしまう。物理的に『一人』であったとしても精神的に『一人切り』にはなり切れないのである。延々と繰り返される反復の中で時折『一人切』になれない『一人未満』の自分とはいったい何なのかと考えてしまう。 

旅先では満足がいく程『一人切』になれた。『一人切』という言葉は何か寂しげな響きもあるが、日常生活の中で『一人切』になれないことの方が余程寂しく虚しいことのように思える。『一人切』になれない、それは『空っぽ』を意味する。自分自身と対話の出来ない人はたとえ常にたくさんの人に囲まれ喧騒の中で話をしていても空虚である自分自身との対話ができるようになって初めて周りのことや人のことが見えて来るような気がする。 

70年代に『Discover Japan』というキャッチ・コピーが一世を風靡した。まさに『旅』とは『発見』なのかも知れない。自分の外側にあるものよりもむしろ自分の内側にあるものを発見することなのかも知れない。本来ならば日常生活の反復の中でも常に自分の中を旅することができる、そんな生き方ができれば素晴らしいと思うのだが・・・。 

自分自身の中での旅は一生一度一回切りの長旅である、たとえ一つのとりとめもない風景であっても見落としたくない。『一人未満』のままで無為に時を過ごし、ある日突然『一人ぼっち』の自分に気づく・・・それは恐ろしいことである。自分自身と対話し続けて来た人間は自分自身を最高の友にして最大の理解者に育てることができる 『一人ぼっち』になることはけしてないのである。