梅の香り


Here In Frisco

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう梅の季節が訪れる。私の生まれた土地は『梅』にゆかりの深い土地である。明治17年の3月19日に明治天皇が観梅のために行幸し、この一帯は「小向村」から「御幸村」と名が変わった。そしてまさに『梅』とは縁を切っても切れない土地になったようである。私の小学校の校章は『梅の花』であったし、校長先生も朝礼で毎日のごとく寒さの中で密やかにほころぶ『梅』のようになりなさいと訓示していた。体育館には大きく『梅のかおり』と大書されて額に収まっていたし、校歌にも『梅』という言葉が散りばめられていた。感受性の強い小学生時代にこれだけ『梅』に囲まれているとやはり私にとって『梅』は特別の花とならざるをえなかった。 

小向村は多摩川のほとりに位置していたので川の氾濫でいつもひどい損害が出ていたらしい。そこで考え出されたのは比較的水害に強い『梅』の栽培だったそうだ。梅の栽培は「寛文年間(1661~1673)から始まり江戸の他、各地に出荷されて梅林は小向村だけでも30ヘクタールに及んだそうである。そして明治16年成島柳北が「朝野新聞」に小向村の梅林を紹介した途端に観梅客が絶えなくなったそうである。それを聞きつけた観梅好きの明治天皇が翌年に行幸して正真正銘『梅』の名所となった。時を経た明治40年に横浜の「三渓園」で有名な原三渓が「横浜貿易新報」に小向村梅林の由来を紹介した。そして彼が小向村を訪れたときに梅が老いてしまい地主が畑にしてしまうという話を聞きつけ、彼は『梅』の古木を引き取り自宅に植えた。三渓園の梅の中には小向村の梅が残されているということである。 

今となっては私の土地では昔日を見る影もない。「御幸公園」という多摩川沿いにある公園が梅林の跡ということになっているが『梅』の数は本当に少ない。これくらいの数の『梅』ならば自宅の庭に植えている人もいるであろう。しかしながらここの『梅』は観る人もなく密やかではあるが毎年「これぞ梅!」といった花を咲かせてくれている。 

私にとって『梅』の花は少し寂しい印象がある。あまりにも学校で植え付けられたイメージが強いのでこの花を観ると「卒業式」「別れ」を連想してしまうのである。そしてあの特攻帰りの小学校の校長先生のごとく凛としたものを感じさせられる。桜の花の下、人々が酒を飲み狂うとするならば、『梅』の花の前に立つと背筋を伸ばして襟をただしたいような気持ちになるのである。『梅』の花は寒さの中でほころび『春』への突破口を開いてくれる。桜の花咲く頃になると『春』は弛緩してしまう・・・。『梅』がその「ヒント」を与えてくれる頃の『春』・・・そこには厳しさの中にも希望が見え隠れしている。 

私はやはり『梅』から離れることはできないようである。