九相図


The Doors - The Changeling

 

 

 

 

 

 

 

小野小町九相図」という絵巻がある。小野小町を描いた絵であるという確証はないらしいが、それとおぼしき美しい女性の骸(むくろ)が桜の木の下に錦の内掛けを掛けられて放置されている。やがてそれは腐乱し、醜くふくらみ、うじが湧き、鳥についばまれ、やがて骨だけになってしまうという実にグロテスクな絵巻である。仏教にはこのような絵がいくつか観られるらしい。これは「色欲」を戒める意味で描かれたものともいわれている。いくら美女でも同じ人間であり、禅僧にいわせれば糞を皮で被った「糞袋」に過ぎないというのである。私は古代インド仏教絵画には非常にエロティックなものが多いように感じたが、同じ仏教でもどこで違ってきたのかが興味深くもある。「色欲」は戒めても無くなるというものではないだろうが・・・。 

私はこの「九相図」を観るときには「色欲」云々よりも人間の哀しさのようなものを感じてしまう。いくら地球上の他の生物よりも高等で教養もあり、ヒューマニズムを持ち、着飾り生きていても行き着くところは「骨」なのである。他の生物と何ら変わるところがない。そして本当の「哀しみ」は、そのことを人間自身がいくら忘れよう、考えまいとしてもわかってしまっていることにあると思う。私は親しい人が死んだときにその姿を永久に見ることができなくなるのは辛いが、変わり果てる姿を観るのはもっと辛いので早く焼いて欲しいと思ってしまう。自分自身についても自分の亡骸が通夜、葬式の間中、人前に晒されるのは嫌である。そう考えてみると通夜、葬式などの弔いの行事は死者のことを考えてではなく残された者達のためにあるのかもしれない。 

散る桜 
残る桜も 
散る桜 

逝く人間も、残る人間も、いずれも哀しい存在であることには変わりが無い・・・。


そういえば中原中也の詩に『骨』というのがあった。



『骨』  中原中也


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖(さき)。 


それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。


生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。


ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?


故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見てゐるのは、――僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。