塵裡に閑を偸む


[HQ] - Emmylou Harris - Rose of Cimarron - Musikladen Folge 69 - 11.03.1982

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日所用のために桜木町駅を夜11時頃利用した。この時間帯は酔っ払った人や疲れ切って帰路についている人がほとんどで駅の雰囲気は弛緩し切っている、構内にはゴミをかたづける人もなく放置されていることも多い。そんな時間帯に駅の便所に入ったのだが、朝顔(便器)の上にポツリと一輪の赤いバラが放置されていた。一輪ではあるが、ちゃんとプレゼント用の包装がほどこされていた。はたしてどのような理由でこの花が便所に置き去りにされたのか、もらった花束を忘れてしまったのか、それとも家に持って帰るとまずかったのか、好きな女に渡そうとして渡せなかった痛恨の花なのか、そんな勝手な空想をして遊んでみた。仏教キーワードで泥濘の中に清浄に咲く白い蓮の花というのがよく使われるが、便所に咲く赤いバラというのはどんなものであろうか、私はこのコントラストを色々愉しんでみた。人にあげるとしたら大きなバラの花束というのも壮観であるが、私は一輪のバラにかえって強いインパクト、その一輪にかけた思いのたけというか、潔さというか、そんなものを強く感じてしまう、茶室に置かれる「一輪挿し」をめでるときと同じ極めて日本人的な感性なのかもしれないが。こんな考えを愉しんでいると「塵裡に閑を偸む」という言葉が浮かんで来た。この言葉はむかし読んだ小説か何かに書いてあった言葉で、私はずっと禅語であると思っていた、調べてみると「香道華道と同じようにお香をめでる道)」の言葉であるらしい。「香道十徳」というお香の効能を歌った言葉の中にあった。

感は鬼人に格る、心身を清浄にす、

能く汚穢を除く、能く睡眠を覚ます、

静中に友となる、塵裡に閑を偸む、

多くして厭わず、寡して衰えてくちず、

常にもちいて障りなし。

何か薬の効能の能書きのようであるが、「静中に友となる、塵裡に閑を偸む」この部分に惹かれてしまう。

まあこれらの気持ちの動きはすべて人間側の問題である、バラは庭園にあろうが、花束になろうが、便所に置き去りにされようが唯我独尊、バラとして咲いている、そういうところが花の普遍的で絶対的な美しさなのではないだろうか。

一輪のバラのおかげで塵裡に閑を偸ませてもらった。