欅(けやき)の樹は残った


Adrienne Young Sings Brokedown Palace

 

 

 

 

 

 

 

 

街中を歩いていて立派な樹を見かけると見入ってしまう。それは歴史探訪の端緒となるからである。川崎の街は空襲でほぼ焼失してしまい戦後は空き地という空き地に建物が建てられていった。そして海は埋め立てられてしまった。昭和30年代頃までは海岸線はもっと街のそばまであり家々には「海苔」が干されていたようである。(大正期には海岸線は浅田町あたりだったらしい・・・)。 
このような街の変貌の中でそのままの姿で取り残されているのは神社仏閣くらいのものである。郷土史研究の第一歩はその土地の「寺」を訪れて一番古い「墓」を調べることだというが、変遷の激しい都会ではこれがまさに「歴史」につながる唯一の細い細い「蜘蛛の糸」なのである。 

神社仏閣には立派な樹が多い。「鎮守の杜」、「御神木」・・・むかしの人は一見、「無駄」を楽しんでいるように見えて実は非常に合理的である。延焼を防ぐため、もしくは数十年毎にに行われる改築、補修用材確保のためにも樹をたくさん建物のそばに植えていた。 
また神社仏閣本体がすでになくなっていても鎮守の杜の一部、御神木が街中にひっそりと残されているというケースもある。それらの樹は大きさもそうであるが他の樹とは違った「風格」「気品」のようなものが漂っている。 
おもしろい話では「横浜開港記念館」の中庭には「玉楠」という樹がある。幕末にこの樹のそばで「日米和親条約」が締結された。当時描かれた絵でよく教科書に掲載されるているものがあるが、その絵にしっかりとこの「玉楠」の樹は描かれている。まさに「歴史的瞬間」を見つめていた樹なのである。この樹は落雷だか空襲で一度枯れたそうだが不思議なことに再び葉をつけて蘇ったそうである。 

京浜急行川崎駅のホームから見下ろせる寺がある。そこの墓地にも立派な欅(けやき)がある。川崎はかつて東海道の宿場町でこの寺に行き倒れの旅人や身寄りのない宿場女郎達が死んだら投げ込まれたそうである。それゆえ「投げ込み寺」とも言われたらしい。 
この寺に聳えるひときわ大きな欅(けやき)の樹も教科書に箇条書きされたものよりももっと私達に身近で人間臭く、血の通った歴史、数々の人間ドラマを見つめてきたのであろう。今その寺の周りは「ホテル街」にかわってしまった。21世紀になっても当時と同様にこの欅(けやき)は『人生』、『男』と『女』の『悲喜劇』こもごもをを見つめつづけているのである。 

「教科書」に載せられている「歴史」というのは時代を遡る程に私達からの距離がどんどん開いていってしまうものであるが、こういった「人間ドラマ」というものは現代とまったく距離はないように思えるのである。『男』と『女』がいて惚れ合ったり憎みあったり・・・。これは永遠に解明されない『謎』であり不変の『営み』、不変の『業』でもある・・・。『歴史家』「教科書」は物事を「善」「悪」の基準で判断したがる。事が終わった後で安全な場所から過去の事件を『評論』し『裁く』のは簡単なことである。そしてその判断基準は時代、体制が移ると同時に変化して行く実に曖昧なものである。街の中には「善」「悪」の判断を超えて永久に不変な「心」の「歴史」が多く残されている。『人間』が生きた実に明確な『証』である。そのような「歴史のかけら」を探して街を歩くのもまた楽しい。きっと「樹」が優しく語りかけてくれて「歴史」への「道標」となって誘ってくれることだろう。