まなざしの集う場所

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日曜日に横浜美術館セザンヌ展を観て来た。『セザンヌ主義』というタイトル通りにセザンヌ本人の作品と(セザンヌ・チルドレン)というべき画家たちの作品が集められていた。日本人の作品もあった。 

私の場合は絵心もないし鑑賞の仕方(そんなものがあるのかもわからないが・・・)も知らない。しかしながら美術館にはよく足を向けている(少なくとも月一回くらいは行っているだろう)。初めて美術館に行ったのは幼稚園の頃だったと思う。上野にパンダのランランとカンカンを観に行ったときについでにモナリザを観たのだった。モナリザを(ついでに観る)のだからこの家族のお里は知れてしまうだろう。 

絵画に限らず芸術作品を観るということは時、場所を超えた(つくり手)との一対一の対話だと思う。人づてに話を聞くならばそれは対話にはなりえない。評論家、セオリーといった物は往々にして(つくり手)を雛壇の上に奉り、御簾の奥に隠してしまいがちである。それでは(つくり手)と対等の対話はできないし、良い話も聴ける訳がない。(神の前に人間は平等)ならぬ(絵の前に人間は平等・・・作者も)そんな環境が一番心地良いような気がする・・・あぐらをかいて向かい合い(つくり手)とさしで一杯やるような感じで・・・。 

私は絵本体よりもむしろその(つくり手)の(人間)の方に強く興味を惹かれる・・・。(自分とも繋がるような)人間ドラマを求めてしまう。(絵)だけでは私は(つくり手)とは繋がることができないのである。(つくり手)がその絵を描いた瞬間、彼はその対象にどのような(まなざし)を向けていたのか・・・それを強く知りたいと思う。(つくり手)の(まなざし)を見つめてそこから対話を始めて行きたい、例えそれが優しいまなざしであっても厳しいまなざしであっても。 

要するに私は自分の絵画を観る目が肥えてないのを良いことにまるで音楽か講演会のように絵をいつも(聴き)に行っているのである。 


そんなこんなで日曜日は横浜美術館まで出向いてセザンヌ爺さん達の話を聴いて来た。絵を観ることの下手な私に集中力がある訳もない。いつもの事だが幾つかの絵を観ているうちに飽きてしまい、絵を観る人の方に目線が行ってしまった。 

私は絵よりもむしろ(絵を観る人)を眺めることが好きなのかも知れない。会場にはいかにも美大生といった感じで緊張感溢れるまなざしで絵を眺める若者、買い物ついでに闖入して来たようなおばちゃん・・・とりあえず入場料の元手分は回収しようと彼女のまなざしはあちらこちらに泳いでいる、その付録でくっついて来たようなおじさん・・・彼は気弱そうなまなざしで動き回る相方と絵を交互に見ている、乳飲み子を抱えてまで出かけて来た若いお母さんの真摯なまなざし・・・本当に多種多様な人々が集っていた。そして多種多様なまなざしが飛び交っていた。 


しかしながら交差するこれらの(まなざし)を喚起して操っているのはやはり絵を描いた(つくり手)の(まなざし)なのである。同じ美術館でも展示される絵によってまったく空気が変わる・・・そして人々の(まなざし)も変わる・・・。 

作者が去っても絵は残る。(つくり手)が去ってもその(まなざし)は残り未来永劫(言葉)を紡ぎ出し続ける。そしてその(言葉)は新たなる(まなざし)を永遠に産み出し続ける。 

私は絵を端緒として時代や場所、職業、目的を超えて様々な(まなざし)が集うこの美術館という場所の空気が大好きである。