颯々の聲
THE TEXAS TORNADOS LIVE at GRUENE HALL, TEXAS
炎天下にジョギングに出かけて行くと良くて『酔狂者』、悪くて『バカ』呼ばわりされてしまう、かくいう私もその筆頭である。暑い昼下がりに1リットルのペットボトルをぶら下げて多摩川に赴くと意外や意外『酔狂者』が結構たくさんいるのである。日焼けするために上半身裸の人、体重を落とすためなのかサウナ・スーツを着込んでいる命知らずの人、様々である。私はペットボトルを持ったうえにタオルまで持つのは嫌なので上半身裸になって着ていたシャツをタオル代わりに使って走っている。
クーラーの効いた屋内から見る炎天下の屋外はまさに狂気の世界である。しかしながら外に飛び出して走り始めるとしばらくは暑いが多摩川の土手にあがると風が吹いていることに気がつく。灼熱地獄のためにその風はあまり救いにはならない。私はいつも5キロ程走った橋で折り返す。ここは数年前アゴヒゲアザラシの『タマ』ちゃんが出没して有名になった場所である。朝走るときは折り返してそのまま走り去るのだが、炎天下ではここで休息をとる。
橋の下という場所はまるで吸い込まれて来るように風が通り過ぎて行く。上半身裸のため遮られる物もなく流れ出た汗が風に吹かれて心地よく体を冷やしてくれる。汗は嫌われてばかりいるが本来体を冷却する大切な役目を担っているのである。
私たち現代人は汗を止めることばかり考えてしまっているが・・・。吹き抜けて行く風と汗の相乗効果で橋の下はパラダイスである。クーラーによる冷房を『快適』と言い切ってしまう私たちには実に新鮮な『快適』である。文明を持った人類は『自然』を戦いの対象、征服すべき物と観てきた帰来がある。私たちは外気を遮断して冷房を効かせた部屋に逃げ込んでいるが、思い切って外に飛び出して行けば『自然』の方でもそれなりに『もてなし』の用意をしてくれているのである。今までとんがって抵抗することばかり考えていた人類であるが『受け入れる』ということに目を向けても良いのではないだろうか。
ルーツミュージック賛歌
"Memphis Soul Stew" (live) King Curtis & The Kingpins
The Ikettes - Sweet Inspiration
ジャズがポピュラー音楽界におけるメインストリームの座をロックに明渡したのはいつ頃のことだろうか。かつてジャズは、ボサノバ、アフロ・キューバン、アフリカン、ミュージカル、映画音楽、クラッシク、さらにはロックに至るまで様々な音楽を取り入れて来た。そしてこれらの中の(マイノリティー的?)音楽までも「ポピュラー・ミュージック」の中に取り込んでしまった。今は代りにロックがその役目を果たしているように思える。70年代になりクロス・オーバー、フュージョン、ニュー・ソウルと・・・ジャズ、ロック、ソウルが交差し、ファンク等を媒介に交じり合い、その境界(別に境界線をつけることもないのだが・・・)はわからなくなってしまった。これだけ音楽の境界がなくなってくると聴く者の選択肢は拡がるわけである。しかしながら選択肢が拡がった分、逆にピュアなものが求められる波が定期的に起こる傾向もある。
いくら音楽が多様化してもジャズ、ブルース、R&B、カントリー・・などの「ルーツ・ミュージック」、そしてクラッシク・ミュージクはポピュラー・ミュージックの「骨」のような物である。どんなに贅肉、筋肉が付こうが消えることはないだろう。贅肉、筋肉はやがて朽ち果てるが、「骨」はいつまでも残っていくものである。私もその「骨」にしがみつき、むさぼり、しゃぶっている一人である。
純粋な意味での『R&B』の歴史の流れに関して、私はキング・カーティス、アイズレー・ブラザーズ、ジェイムス・ブラウンを時代時代追って聴けば大体把握することが出来ると考えている。
さらには動画のアイク&ティナ・ターナー・レビューである。彼らは時代のヒット曲を節操なくカバーしている(そういえばティナ、キング・カーティスともにレッド・ツェッペリンの曲までカバーしていた)。そして実に猥雑!卑猥!下世話!・・・まさに申し分ない。このレビューはかつてのメディシンショーの流れを汲み、サウンドは違えども時代の音に対する向き合い方なども含めて、かつての黒人大衆音楽の雰囲気、臭い、モンキー・ビジネスさを一番色濃く現代に残していたと私は感じている。
耳障りのいい,知的、お洒落なサウンドばかりが(R&B)と呼ばれてもてはやされる昨今、汗臭く・・・血の通った黒人大衆音楽 『R&B』に想いをはせる私なのである。
レコード屋の想い出
フォーレ《レクイエム》全曲 クリュイタンス指揮/パリ音楽院管
この前テレビをつけたらカール・ベームの指揮による「ベートーベン交響曲第五番」の演奏を放送していた。
動くカール・ベームを見るのは本当に久しぶりであった。
そしてカール・ベームが好きだと言っていたある人のことを思い出し感無量となった。
私が音楽に興味を持ち始めた中学生の頃で
当時川崎のとあるレコード屋に足繁く通ったものであった。
お金があるわけではなくせいぜい買ったとしても月にLP一枚であったが、ともかくレコード屋に入り浸っていた。
当時のレコード屋はDVD、ビデオ、ゲーム・ソフトなどが置いてあるわけもなく
実に広々としていたものだ。
一階がロック、ポピュラー、二階がクラッシック音楽売り場となっていて、
特にクラッシック音楽売り場に関しては試聴用に応接セットのような物が設置されていてなかなか贅沢なつくりであった。
私が買うのは一階の物中心であったがよく二階にも入り浸っていた。
ひたすら端から端までレコードを見ていったものだった。
その二階の売り場には他の店員とは大分年齢の離れたお爺さん店員がいた。
「益田キートン」を鋭くしたようなダンディーな人であった。
そのうちにその人とも話しをするようになった。
当時「ポイント・カード」という物があって、それはレコードを買うごとにハンコを押してもらい
いっぱいになると一枚レコードをもらえるというシステムであった。
ハンコの横には買ったレコード名が記載されていた。
その人にポイント・カードをみせたら
「なんだロックばかりだな?クラッシックも聴きなさい!」と言われた。
今からしてみれば余計なお世話だと思われるのだろうが、
その言葉から音楽に対する深い愛情を感じたので
素直に話しを受け入れて少しずつクラッシック音楽も聴き始めた。
彼は視聴ブースにレコードを買いもしない私を連れて行き
コーヒーをごちそうしてくれたものであった。
そしてカール・ベームが人間的にも大好きだ・・・とよく言話していた。
葬式の時には「フォーレのレクイエム」で送られたいとも言っていた。
多分、当時でもこのお爺さん店員のような人は特異な存在であったのかもしれないが、
最近のCDショップの店員さんは「音楽」に関する知識ではなく
「商品」に関する知識だけが豊富な人が多くなってしまったように思える。
個人経営の店でも無い限りあまり好き嫌いをはっきり言えないのかも知れないが
やはり本当に「音楽」を愛していて尊敬の念を持っているのならそれは当然あるべきものだと思う。
そこから初めて「客」と「店の人」の立場を超えたコミュニケーションが始まるのだと思うが・・・。
まあそんなものは必要ないと言われればそれまでであるが・・・。
あれから二十数年が過ぎた・・・
もう「フォーレのレクイエム」は流れてしまったのかもしれないが、
カール・ベームのレコードでも聴きながら一緒に酒を酌み交わしてみたかった。
闇の中の交響曲・・・彼岸へ・・・
Bruckner Symphony No. 9 (Abbado & BPO)
かつてはクラッシク音楽の演奏会にもよく足を向けた。聴きに行ってみればとても気持ちがよいことはわかっているのだが、その都度予定を立ててチケットを購入するのは結構面倒臭いものである。それゆえに3回分くらいの演奏会がパックになった物を格安で購入していた。そうすれば必然的に行くことができたからである。
しかしながら最近はそんなチケットも購入せず、もっぱらクラッシク音楽は眠るときに布団の中で聴くのみになっている、したがって、なかなか最後まで聴きとおすことができない。
テレビで「N響」の演奏会などを観ていると交響曲の演奏の映像は曲が長いためにオーケストラ、指揮者だけを映していると手持ち無沙汰になり勝ちである、勿論、指揮者、演奏者の一挙一動を見逃したくないというような愛好家にはその方がよいのかもしれないが、そこを行くと作曲者の歴史、ゆかりの土地、イメージ映像といった画像をバックで流す「名曲アルバム」のようなやり方は斬新的であったと思う。
私の場合、クラッシク音楽の印象は他の音楽と違うものがある。他の音楽は「演奏を聴く」、「CDデッキで聴く」といった感じのイメージであるがクラッシク音楽の場合は「演奏の中に入る」、「演奏に包まれる」といった言葉の方がしっくりくる。交響曲などの場合、演奏者の数、音圧、音の層の数は勿論、テーマもすごく広大である、したがって演奏が一つ一つの「宇宙」だと思える程の広大さを私は感じる。一度その演奏の中に入り込み、包まれてしまえば外界から遮断され時空を超越したそこだけの「One and only」の世界に入ってしまう、広大な「サーカス小屋のテント」みたいな物とでも言おうか・・・・。
私は眠りに着くときはよくブルックナーの交響曲を聴いている。「4番」「8番」「9番」である。ブラームスはブルックナーの交響曲を「交響的大蛇」と皮肉まじりに評したそうだがまさに重厚、長大なイメージがある。ブルックナーの時代はショパン、シューマンがほとんどの曲を書き終えて、リストが交響詩を発表し、マーラーが交響曲を書き始めた時代でいわば「ロマン派」花盛りの時代といえるかもしれない。そんな時代の中でブルックナーの音楽はとても異質に聞こえる。当時からすでに「時空」を超越していたのかもしれない。
昨夜は「ブルックナーの交響曲第9番」を聴きながら眠りに着いた。瞼を閉じた闇の中で聴こえてくる音はまるで明滅する花火のようだ、その花火の明滅に合わせるように次第に私の意識も明滅し眠りの世界に引き込まれていく、そこには確かに「時空」を越えた「彼岸」の世界がある。
怪談芸術
Pharoah Sanders - The Creator Has A Master Plan
私はことに幽霊話については臆病なのだがどうしても聴きたくなってしまうのである。私は今まで実際に幽霊をみたことはない、友達で見えるという奴がいてそいつの話では人の家に遊びに行って見えてしまうことがあるそうだが、特に一人暮らしの人の場合は可哀想なので黙っていてあげるそうだ。彼が私の家に遊びに来た時に恐る恐る「何か見えるか?俺の家にはいるのか?」と訊いてみた。そいつは「見えない、何もいないみたい・・」と答えたのだが、コイツまた妙な親切心から黙っているのではないかという疑いが沸き起こり、念のため「くすぐりの刑」にかけてその真偽のほどを確認した。どうやら本当に「白」であったようである。
私はむかしの「大映」の怪談映画が大好きであった。「四谷怪談」、「牡丹灯篭」、本郷功次郎が出ている作品群である。メイクなどは現代の映画に比すべくもなく「お化け屋敷」程度の物であるが、そのオドロオドロしさにかけては天下一品である。恐らく俳優の演技の素晴らしさなのかもしれない。日本の古典的な怪談の真骨頂は「情念」にあると思う、ショッキングさというのは見た瞬間にしか残らないが、この「情念」というのは怪談を見たあと、聞いたあとにも長く心に残るものである。「四谷怪談」、「牡丹灯篭」、「番町皿屋敷」にしても悲しい女の情念を描いている。これらの怪談の場合、最初は幽霊に襲われる人間の方に人は感情移入をするが、話しが終わったあとは悲しい女の幽霊の方に気持ちがいってしまうことが多い。
(幽霊と生きている人間)そのどちらが本当に怖いか・・・といったこの永遠の問いかけ・・・これが怪談作品の芸術性といえるのではないだろうか。