無関心なるがゆえに残される歴史


Association - Never My Love - ( Buena Calidad ) HD

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が物心つく頃から我が家には古い踏み台が一つあった。その踏み台はいびつでいかにも市販品ではないことを物語っていた。私は幼い頃にその踏み台を様々な遊びに使った。馬に見立てたり、車にしたり、ボール投げの的にしたり、跳び箱にしたり・・・。恐らく本来の踏み台として使用したことは皆無であったと思う。その踏み台は現在もあまり使われることはないが我が家に当たり前のごとく居座っている。

一度祖母にこの踏み台について訊いたことがあった、子供の頃の暇つぶしの思いつきの質問であったのだが、その話は興味深かった。現在私が住んでいる家は昭和49年にできた建物だが、それ以前の家は大正時代の建物であった。私の家の辺りは空襲焼け野原になったので戦後どこかからその家を解体して今の場所に運び組み立てたらしい。そのときに何故か余ってしまった木で老い大工さんがこの踏み台を作ってくれたそうだ。作りはいびつなのだがその頑丈さと実用性の高さは当時の大工さんの仕事の良さを感じさせてくれる。

当たり前のように家に置かれている踏み台ではあるが、我が家では一番歴史の古い物であろう、いわばこの踏み台の本体であった建物はとっくにこの世から姿を消してしまったが、端物で余り物であるこの踏み台の方が家人の無関心の中で長い生命を保っているわけである。さらにとうの昔に亡くなったであろう大工さん、彼の生前に作った建物も恐らくこの世から姿を消してしまったと思われる、そんな中で彼がついでというか遊びで作ったこの踏み台が現存しているというところがまたおもしろかった。

「歴史」に関する物といえば「保護」「保存」という言葉がうるさくつきまとう物であるが、日本にはまだまだ「無関心」であるがゆえに残されている「歴史」がたくさん埋没しているように思えるのである。