時盗人


Larkin Poe | Simon & Garfunkel Cover ("Sound Of Silence")

 

 

 

 

 

 

子供の頃に『大人』の『象徴』と考えていた物が幾つかあった。タバコ、髭、車、酒、恋愛・・・。それらの物に常に憧れを抱いていた。しかしながら前述のアイテムは子供にはまだ『ご法度』であった(後に隠れて試した物も幾つかあるが・・・)。子供はとかく背伸びして『大人』に憧れを抱き真似をしたがる物である。私はまず手頃な『大人』のアイテムとして『腕時計』に目を付けた。家に転がっていたもう使われていない女物の腕時計を見つけてそれをつけて外出して満悦していた。今の電池式のクオーツとは違いネジ巻き式だったのでいくら放置されていても巻いてあげればすぐに時を刻み始めた。『道具』としてははるかに昔の時計の方が優秀である。その当時はたして私が時計を読むことができたかはなはだ疑問である、学校でもまだ習っていなかったかも知れない。恐らく時計を『道具』として使うのではなく『アクセサリー』として腕に飾っていたのだろう。この使い方を改めて考えてみると今の私よりも大人びていると感心してしまう。

現在の私にはそのあどけなさがうらやましい。学校で時計の読み方を習って『大人』に一歩近づいたと喜んでいたが、その時点で私の悠久なる『時』の『流れ』は『時計』に盗まれてしまったのである。悠久なる時の流れがその針と文字盤によって切り刻まれ、やがて『切り売り』されるはめになってしまったのである。映画『イージー・ライダー』でピーター・フォンダが腕時計をはずして放り投げてバイクをスタートさせるシーンがあったが、私も時折腕時計と一緒にすべてを放擲して刻まれた『ブツ切り』の『時』ではなく悠久なる『流れる』『時』の中に身をゆだねてしまいたいと思うことがある。私の周りには実に多くの時計がある。壁時計、腕時計、目覚まし時計、携帯電話の時計、据え置き電話の時計、車の時計、仕事で使う機械の調整盤の時計、そして風呂沸かし機の調整盤にまで時計が埋め込まれている。何処へ行っても一日中時計が付きまとって来るのである。いい加減ウンザリはしているのだがそれを捨ててしまったら社会生活が出来なくなってしまう・・・。


先日『百円ショップ』で『砂時計』を見つけた。これを見かけるのは本当に久し振りだったので思わず衝動買いしてしまった。上から下へ落ちて行く砂を見つめながら思った。『刻まれる』『時』にばかり追いかけられていた私。滑らかにサラサラと『流れる』『時』は実に新鮮だった。しばし『時計(?)』を見ながら逆にすっかり『時』を忘れその束縛から自由な時間を過ごすことができた。