茶呑み話


Baden Powell - Manha de Carnaval (1970)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日『茶』の話をして思い立ち、岡倉天心の『茶の本』(和訳)を引っ張り出して再読してみた。日本人が英語で書いた著作の最高傑作と言われているだけあって短いながら無駄のない鋭い言葉で『茶』のみならず『東洋』、そして『西洋』を語っている。 

それはさておき、今回は『現代の茶事情』みたいな事を書いてみたい。某茶の有名メーカーの缶入り茶に「お茶を缶飲料にすることに成功したのは○○○が最初です」と『能書き』が書いてあった。確かに思い返して見ると『缶飲料』といえばかつては炭酸飲料等の缶ジュース、缶コーヒーくらいしか存在していなかった。それらは決まって過度に甘い飲料であった。トマト・ジュースのような例外はあったがいずれにしても飲んだ後に快(?)、不快(?)な『味』が口の中に残ってしまう飲料ばかりであった。そんな缶飲料業界に現われた『お茶』は実に画期的であった。しかしながら最初は実に地味であまり売れていなかったように思える。第一味が家庭で飲む物とは著しく違っていた。(それは今でも言える事である)。 

そして『ペット・ボトル』という物が現われてからはまさに『お茶』の天下である。テレビのニュースとかでも様々な会議、会合の様子が映し出されるが、かつてはテーブルの上に『水差し』が置かれていて各自がそこからコップに水を入れていた。しかしながら最近になると缶のお茶かペット・ボトルのお茶が各自の手元に置かれているのが映し出されている。手間がはぶけるというのが一番大きな理由だろうがやはりそこは『日本人』であるから味気ないただの水よりも『お茶』の方が心にゆとりを与えてくれるという理由もあるのだろう。 

これだけ普及している『缶』『ペット・ボトル』の『お茶』ではあるが、どう転んでも家庭で飲む『お茶』の味との差は歴然である。味のみならずコップにあけてみると妙に赤味がかっていて色も家庭で飲む茶とは違っている。むしろ飲む人が「別物」と考えているがゆえにそのシェアを保っているように思える。それはあながちネガティブな事ではなく新しい茶の文化といえるかもしれない。それまではほうじ茶、麦茶等は別にして冷やして煎茶を飲むという習慣はあまり無かったのではないだろうか・・・。『冷めた茶』というと『馬の小便』という言葉と同じくらい茶としてはネガティブなイメージがあったように思える。事実、今に到っても「冷たい茶なんて邪道だ」と言って温かい茶以外は飲まない人もいる。そのような人も確かに存在しているが今では大部分の人が『冷たい茶』をわざわざ選んで買っているのであるから「缶飲料」の世界のみならず、ずうっと保守、伝統で徹してきた「お茶」の世界にとっても『革命』であったといえるのではないだろうか。 

今、茶飲料の業界は『群雄割拠?』の『戦国時代』といえるかもしれない。次から次へと新しい商品が登場し、そして消えていっている。今までのように家庭の茶に味を近づけるという路線ではなく、むしろ家庭の茶の『呪縛』から解き放たれて別の道を歩み始めたようにさえ思える。 
いずれにせよ私は家庭のお茶を今まで通り飲み続けるであろうし、缶飲料の『お茶』がどんどん新しい『美味さ』へ進んで行くのもそれはそれで楽しみである。いずれにしても『茶』からは片時も離れることはできないようだ。