奔馬 RUNAWAY HORSE


Jackson Browne - The Road and the Sky

 

 

 

 

 

 

先日私の家の近所の厩舎からサラブレッドが脱走するという椿事があり全国的にニュースとして報道された。私が子供の頃も馬が脱走して車が走る道路を疾走する姿を目撃したことがある。しかしながらそれは多摩川沿線の二車線の道路であった。今回は片側三車線、計六車線の交通量の多い「国道一号線」を3キロ近く疾走したらしい。タクシーにぶつかったりしたそうだが大事に到らなくて幸いであった。最後は人参を持った主婦の機転で馬をガレージに誘いこみシャッターを閉めて身柄を確保したという話である。 

私は毎朝ジョギング時に多摩川の河川敷内のコースを湯気をたてながら疾走する多くの馬を見ている。馬は恐らく人類が家畜にした最初の動物の一つだと思われる。私は家畜としての馬しか知らず「野生の馬」という物を見たことがない。果たして野生の馬というのはどんな風に疾走していたのかを想像してその美しさを想像してしまうのである。厩舎の人に言わせれば馬は喜んでコースを走っているそうだが、決められた時間に有無を言わさず限られたコースを走らさせられている馬の気持ちはどんなものかと考えてしまうのである。私が馬だったら『お前も走れよ!』と騎手を振り落とし、逃げ出してしまうであろう。 

昨今は狂牛病、鶏インフルエンザ、鯉ヘルペスに関連して多くの動物、生物が屠殺されたというニュースをよく見かけた。そういえば厩舎の馬というのも素質がなければ屠殺されるし活躍した馬であっても死ねばすぐに「サクラ肉」になるような話を聞いたことがある。畜産農業というのは明治期に西洋から日本に入って来たものであるが、その考え方についても西洋と東洋の違いを感じてしまうのである。たとえば『鯨』の問題であるが、西洋の立場から言わせると鯨を獲るのは可哀相であるそうだ。では『牛』や『豚』はどうなんだ?と尋ねると「家畜はペットではない」と躊躇無く言い切られてしまう。『家畜』『ペット』という区別(差別)、概念も人間が都合の良いように勝手に決めた物であって動物達は預かり知らぬことであろう。私個人の考え方からすれば『鯨』などよりも遥かに『牛』や『豚』の方が可愛いと思う。『命』の重さに違いはないのだろうが、殺されるところを見たとしたら『鯨』よりも『牛』や『豚』の方がもっと可哀相に思えてしまうだろう。「量が少なくて絶滅の危機に瀕していて希少である」と言われても、それは南米でインディオを虐殺によって絶滅させて、アフリカで黒人を奴隷にして売り捌き、すべての富を私してその事に関して今だ謝罪、説明をしていない人達が言うとあまりにも説得力がない、まったくもって笑止千万!ちゃんちゃらおかしい。 
『鯨』にしても『牛』『豚』にしても同じ一つの『命』には変わりない、私はそう考えている。しかしながら私は『鯨』だろうが『牛』だろうが『豚』だろうが『馬』であろうが、これら動物の肉を食べているし「ベジタリアン」になる気は毛頭ない。 

日本人が食事を始めるときに言う「いただきます」、「ご馳走さま」という言葉は仏教思想から来ているそうだ。本来は「あなたの命をいただきます」と自分達が食べるために命を落とした動物、植物に感謝の気持ちを込めて使われる言葉だそうだ。仏教の「輪廻転生」の考え方からすれば私達の魂がたまたま人間に生まれたわけであって、牛、豚、馬に生まれることもありえるのである。それに対してキリスト教の考え方はどうかというと旧約聖書の創世記1章 27~28の有名な言葉に、「神はご自分をかたどって人を創造された、神にかたどって創造された、男と女に創造された。神は彼らを祝福して云われた、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」、この言葉はダーウインの「進化論」のときにも論議を巻き起こした。しかしながら現在の日本人の宗教観というのはかなり変わってしまった。無関心といえばそれまでだが本来ならば日々の『生』と対峙するために向き合うべき『死』のはずが、一番大切であるはずの日々の『生』をすっ飛ばしてまるで保険会社の勧誘のように『死後の世界』について喧伝し、そして『現世利益』の中でも『精神世界』から思い切り離れた俗な物ばかりについて言及する宗教が幅をきかせている。『死ぬ』事を考える前に日々生きなければいけないというのに・・・。 

私はときどき『人間』とはそれ程偉く、高尚な物なのだろうかと疑問に思ってしまう。確かにその智慧(奸智?)を使って生態系の上に君臨し地上の動物を支配しているかのようにも見える。しかしながら他の動物達のように生きるために足りる分を食べ、そのためにやむなく殺生をするのではなく飽食をしたり、自分がただ楽しむためだけに、自分の都合だけで無益な殺生を続けている。そしてそれは他の動物に対してだけではなく同類の人間にまで及んでいる。ある意味、生態系を乱す地上最低の『動物』は『人間』に他ならないのかもしれない。そんな最低の『動物』が他の動物を裁いて、これは保護しなければいけない、これは食べられるために産まれて来た動物だから仕方ない、等と勝手に決め付けているのは笑止千万である。いつからお前はそんなに偉くなったのか?と問うてやりたい。馬だって豚だって牛だって、そりゃあ逃げ出したくもなるだろう・・・。 
この文章の題名を『奔馬(Runaway Horse)』としたのは結果云々ではなく(挫折するのはわかりきっている)、『日常(生態系)』から『自由』に向けて後ろを顧みずひたすら疾走した馬の美しさ、その意志に共感し、賞賛と敬意を称したものである。 
地球上の『生態系』の頂点に佇立し、睥睨し、他の動物達を自分たちのご都合主義で裁いている『人間』ではあるが彼らもまた弱肉強食の自分たちの『生態系』に組み込まれていることに気づいていない。『日常』といった言葉で隠され、言い訳されているもっと陰湿な『生態系』である。 


今後も私は延々と続く『日常』の中で肉も魚も野菜も食べつづける・・・人一倍たくさん食べつづける・・・『おいしい!おいしい!』と連呼しながら食べつづける・・・そして『いただきます!』と『ご馳走さま!』も手を合わせ、心を込めて言うつもりである・・・。 


・・・そして猛烈に『奔馬(Runawy Horse)』に憧れる・・・。