決まり


JOAN OSBORNE Sara Smile

 

 

 

 

 

 

小学校の頃だろうか「俳句」「短歌」について初めて学んだのは。「五・七・五」とか「季語」とか「枕詞」とかいろいろな「決まり」があることを知った。どんなことに関する「決まり」でも中学生くらいになると煩わしくなる、そして反発を覚え「自由」を求めたがる。しかしながら社会に出てみると世の中は「決まり」だらけである。そしてけして「決まり」がネガティブなだけのものではないことに気づく、「決まり」に助けられ、守られていることに気がつくからである。その結果「決まり」に依存してしまうのである。逆に小学生時代の柔らかい頭だと「決まり」の中に「遊び」を発見し、楽しむくらいの柔軟さがある。私達も小学生時代、「俳句」、「短歌」の「決まり」を「制約」とは考えず「ゲーム」の「ルール」として楽しんだ。「ゲーム」は「ルール」があるからこそ「ゲーム」として成り立つのであって「ルール」がなければ話にならない。将棋で負けそうになると盤を引っくり返してしまう人がいたが、それはゲームを楽しんでいるとは言えず、「勝ち」「負け」の結果だけしか念頭にないのだろう。 

ただ「俳句」、「短歌」に関する「決まり」が「ルール」として作られたようには私は思わない。流れに削られる河原の石や、鍾乳洞の中の鍾乳石のように自然にそして自由に洗練されていったように思えるのである。恐らくそれにはさして時間はかからなかったと思う。日本人であれば共通している感性でそのリズム、言葉の響き、そして古来日本人には欠かすことができなかった季節にかんする敏感さ・・・。それらが自然に発露、萌芽していったように思えるのである。それを「決まり」として教えざるえなくなったのは、伝統的日本人の感性が現代の我々に欠落しつつある悲しむべき事実のように思えてならない。この「決まり」を学び、俳句、短歌を読み考えることなく直感的に心に響くものがあるのならばよいが、やがて何も感じることがない日本人ばかりになるのはひじょうに哀しいことである。「俳句」「短歌」の「決まり?」を「制約」と考えてしまう現代日本人の我々はまさに「決まり」に制約されている民族である。 

それにしても「三十一文字」という小さな空間にだいたい五文字の「枕詞」を入れ、それを(扉)として宇宙を構築して行く・・・。そんな日本の「短歌」「俳句」のような詩歌は世界中さがしても存在しないであろう。 


そしてこれだけ自由を感じさせる詩歌も存在しないであろう。