待つというふこと

 
 
 
 
 
 
 
 
人間は人生の限られた時間の内どれくらいを『待つ事』に費やすのだろうか。『待つ』ということはいかなる場合でも辛いものである、うれしい事を待つにしても、悲しい事を待つにしても、いずれにしても精神衛生上良くなさそうである。かくいう私も、ここのところPCの調子が芳しくなくインターネットにつなごうとしてもしばし待たされイライラすることが多かった。どうやら人間は文明が進化するのと比例して『待つ事』が辛くなって行くような気がする。それが如実に現れているのは『交通』であろう、かつては『東海道五十三次』をテクテク歩いていた人間が汽車が出来て電車となってそして新幹線を利用するようになった。最初の内は新幹線の速さに驚いていた者がすぐに慣れてしまいさらなる速さを求めるようになる、余計な時間が縮まりゆとりの時間が出来ると思いきや人間はそちらの方に時間を振り当てず、自らの首を締めるがごとく、より『能率』を求めた。インスタント・ラーメンについてもそうである。最初は『三分間』で出来あがるということに驚きつつも、すぐにその『三分間』が果てしなく長く辛い物に変ってしまった。要するに人間は文明の進歩と欲望の『終わりなきレース』の中で自分の首を締め続けているわけである。文明は欲望に追いついたかと思いきや欲望は兎のごとく一跳びしてさらに先へ行ってしまうのである。文明の進歩を否定することは出来ない、したがってこの『終わりなきレース』を認めざるをえないわけである。それならば人間の方で発想を変えるしか手はない。『待つという事』を『待たされている』と思っては負けなのである、最初は時間を『潰す』「何か」を見つける、そして次第に『潰す』時間ではなく、その「何か」を『する』時間に自分の中で発想を変えていくのである。それは読書でもよいし、もっと短い時間ならば思索でも空想でもよい、ともかく『されている』のではなく自分から『している』という発想が大切だと思う。それができれば人生の中の『待つという事』は駆逐されるのではなく有意義な物に変えられるような気がするのである。 

と・・・いつも待たされてばかりいる私は考えているのである。