国際化今昔

 
 
 
 
 
 
 
 
 
無意識のうちに歌を口ずさんでいることがある。私の場合は「童謡」が多いようだ。感受性が強く、多感で頭が柔軟であった頃に覚えたものは忘れられないらしい。 

その中でも「おぼろ月夜」はよく口ずさむ曲だ。この曲の詞を紐解いてみると感情移入の言葉はない。ただ情景描写に終始している。しかしながら、あのメロディーに乗ってくると頭の中には一面の菜の花畑が浮かんで来て溢れかえり、様々な想い出が重なり聴いている方、歌っている方は感情移入に没入してしまう。 

「童謡」というのはいわば明治政府の「脱亜入欧政策」の一環で西洋音階を子供に習わせようとしたものだった。当時の漢文調、7・5調の詩が西洋のメロディーに乗せられると実に不思議な化学変化を起こし独自のものに昇華する。今にいたっては「童謡」は古き良き日本を思い出すよすがとして語られることの方が多いが・・・。 

今の政府はこれらの「童謡」を「わかりにくい」というだけの理由でつぎつぎと教科書からはずしているらしい。わかりにくければ教えればすむことだろうし、例え意味がわからず歌っていても大人になってこういう意味であったのかと感動することもある。これらの「童謡」をきっかけにむかしの詩に興味を持つ子供もいるかも知れない。要は教える側の勉強不足、努力不足に過ぎないのではないだろうか。このようにして(伝統文化)という物は怠慢な(空白)によって破壊されて行く・・・二度と取り戻すことができない物であるにもかかわらず・・・。 

「国際化」が進む中、「英語」の勉強を始める年齢が早くなっていっているようだ。「日本語」の方が先ではないか?と疑問に思わざる得ない。例え英語に堪能でも自国の文化を知らずして「国際交流」ができるのか疑問に思う。自国の文化を誇りに思い、他国の文化を尊敬する、ここからが本当の意味での国際交流のスタートだと思う。「国際化教育」というのは自国文化も知らずに、ただ英語をしゃべる『わからん人』をつくるためのものではないだろう。実際問題、外国人の方が日本の文化、歴史について博識で向こうから質問されて答えに窮するケースは多いのではないだろうか。(しかしながら何をもって明確に日本文化というか、現代日本では、はっきりわからないのが現状なのかも知れない。食生活も純粋な和食だけという人はいないだろうし、民族衣装である着物を常時着ているという人はひじょうに稀だろうし金を払って人に着付けをしてもらう人がほとんどだろう。そのような状況の中で残された数少ない伝統的日本文化というのは「日本語」という言語だけではないだろうか。 

『国際化教育』における(英語教育)は英語を単なる『ツール』としか考えていないようにも思える。(日本語)に関しても同じような解釈で教育されたのならばたまったものではない。 

確かに日本語は乱れる一方であるが、言語は(生き物)であるからその変容は仕方がないことなのかも知れない。だからこそ英語の時間を増やすよりも先に綺麗な日本語を伝えていって欲しいと思うのである。 

「西洋化」のためにつくられた「童謡」を聞いて「日本」に思いをよせる。一見不思議なことのように思えるが、これは西洋的音階を拝借しつつも、当時の日本人が美しい日本語に対する誇りを失わずに曲を作ったからではないだろうか。