闇の中の交響曲・・・彼岸へ・・・


Bruckner Symphony No. 9 (Abbado & BPO)

 

 

 

 

 

 

 

 

かつてはクラッシク音楽の演奏会にもよく足を向けた。聴きに行ってみればとても気持ちがよいことはわかっているのだが、その都度予定を立ててチケットを購入するのは結構面倒臭いものである。それゆえに3回分くらいの演奏会がパックになった物を格安で購入していた。そうすれば必然的に行くことができたからである。 
しかしながら最近はそんなチケットも購入せず、もっぱらクラッシク音楽は眠るときに布団の中で聴くのみになっている、したがって、なかなか最後まで聴きとおすことができない。 

テレビで「N響」の演奏会などを観ていると交響曲の演奏の映像は曲が長いためにオーケストラ、指揮者だけを映していると手持ち無沙汰になり勝ちである、勿論、指揮者、演奏者の一挙一動を見逃したくないというような愛好家にはその方がよいのかもしれないが、そこを行くと作曲者の歴史、ゆかりの土地、イメージ映像といった画像をバックで流す「名曲アルバム」のようなやり方は斬新的であったと思う。 

私の場合、クラッシク音楽の印象は他の音楽と違うものがある。他の音楽は「演奏を聴く」、「CDデッキで聴く」といった感じのイメージであるがクラッシク音楽の場合は「演奏の中に入る」、「演奏に包まれる」といった言葉の方がしっくりくる。交響曲などの場合、演奏者の数、音圧、音の層の数は勿論、テーマもすごく広大である、したがって演奏が一つ一つの「宇宙」だと思える程の広大さを私は感じる。一度その演奏の中に入り込み、包まれてしまえば外界から遮断され時空を超越したそこだけの「One and only」の世界に入ってしまう、広大な「サーカス小屋のテント」みたいな物とでも言おうか・・・・。 

私は眠りに着くときはよくブルックナー交響曲を聴いている。「4番」「8番」「9番」である。ブラームスブルックナー交響曲を「交響的大蛇」と皮肉まじりに評したそうだがまさに重厚、長大なイメージがある。ブルックナーの時代はショパンシューマンがほとんどの曲を書き終えて、リストが交響詩を発表し、マーラー交響曲を書き始めた時代でいわば「ロマン派」花盛りの時代といえるかもしれない。そんな時代の中でブルックナーの音楽はとても異質に聞こえる。当時からすでに「時空」を超越していたのかもしれない。 

昨夜は「ブルックナー交響曲第9番」を聴きながら眠りに着いた。瞼を閉じた闇の中で聴こえてくる音はまるで明滅する花火のようだ、その花火の明滅に合わせるように次第に私の意識も明滅し眠りの世界に引き込まれていく、そこには確かに「時空」を越えた「彼岸」の世界がある。