都市伝説と怪談


小林啓子 - からっぽの世界 - 1972

 

 

 

 

 

 

今では「都市伝説」という言葉がちゃんと用意されていて社会学心理学の分野では重要な研究材料になっているようだが、私が小学生の頃にはそんな呼び名はなく「噂話」としてその手の話が流布されていた。恐らく全国区に広がっていたであろう「口裂け女」や、各学校に必ずある話でトイレから手が出て来るとか、誰もいない音楽室からピアノの音がしてくるとか。

それらの話については「何故?」という疑問を投げかけることなく怖がりつつも愉しんだものだった。この「何故?」が説明されていれば立派な怪談、芸術作品にもなりえるのだろうが。「口裂け女」の口は何故裂けていて、何故夕闇の町を徘徊して人を恐怖のどん底に突き落としたのか?そこのところをやや浪花節調の物語にしてゆけば日本の古典的怪談を踏襲した作品になりうるかもしれない。「都市伝説」についてはこのような古典的怪談浪花節的な、その化け物?に同情できるようないきさつが説明されていない場合が多い、「化け物の怖さ」だけではなく「訳がわからない怖さ」という物も加味されてくるわけである、これではその化け物に感情移入して同情することもできないし、通り魔的な恐怖のみが襲い掛かってくるのである。いわばショッキングで「ドライな恐怖」といえるかもしれない。都市伝説に「ウエット」な部分がはぶかれているのは、これらが主に口から口へ伝わるものであるのが理由ではないかと考えてしまう、口で話す場合は長ったらしいのは面倒であるし、それこそ怪談語り部がそうであるようにその恐怖は語り口のうまい下手によっても左右されてしまう。こうしてみると都市伝説怪談の面倒臭さ、技術をはぶいてショックと恐怖だけを抽出した「インスタント製品」といえるのかもしれない。怪談を作ることは一つの芸術であり、怪談を語ることも一つの「芸」である、これらをすべての人がうまくこなすことはできないであろう、そんな中で生まれたのが都市伝説ではないかと考えてみた。