横濱貴婦人物語・・・南洋の夢・・・


浪路はるかに   ビリー・ヴォーン楽団

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は実に気持ち良い天気であった。私は横浜ランド・マーク・タワーのとあるレストランにいた。窓からは帆船日本丸を一望することができた。幸運なことに昨日は「総帆展帆」の日で訓練を受けて熟練したボランティアによってすべての帆がかかげられていた。「海の貴婦人」と呼ばれているだけあって白い帆が実に美しかった。日本丸は毎朝椰子の実を割った物をタワシにして甲板を磨く清掃のボランティアもあり、こちらの方は素人でもすぐに参加できるようである。 

横浜にはもう一隻現役を退いた船が係留されている。山下公園にある氷川丸である。この2隻の船は練習用の帆船と客船の違いはあるが、くしくも同じ昭和5年に竣工している。日本丸は1月27日に神戸川崎造船所、氷川丸は4月25日に三菱横浜造船所でそれぞれ竣工している。さらに当時の三菱横浜造船所は今ちょうど日本丸が係留してある場所あたりにあった。そんなところでこの2隻の船は繋がっていたのである。 

私個人としては、この2隻の船には祖父の思い出がいっぱいつまっている。祖父はマラリアでフラフラの状態で当時徴用されて病院船となっていた氷川丸パラオから復員してきた。世の中せまいものでその時世話になった従軍看護婦さんが私の小学校の保健室の先生であった。必要とあれば兵隊を張り飛ばしたといわれる従軍看護婦さんだが、その先生もいつも凛とした人であった。そして日本丸は現役時代に場所は忘れたが、どこかの港に立ち寄ったときに一般公開されてそれを祖父に連れられて観にいった、これが祖父と出かけた最後であった。 

横浜、パラオ繋がりだと私の好きな作家に中島敦という人がいるが、この人は横浜高等女学校(現横浜学園中学高等学校付属元町幼稚園)で国漢の教師をしていた。彼が元町、中華街を舞台にして描いた『かめれおん日記』『和歌でない歌集』他七つの歌集を残している。機会があったら本を持って散策してみて欲しい。彼は教職を休職して憧れの南洋パラオへ渡り当時の『南洋庁』の官吏の職に着いた。(『南洋庁』は当時の南洋植民地政策の本拠地としてパラオに置かれていた)。中島敦はそこで『日本のゴーギャン』と言われた画家土方久功と出会い大きな影響を受ける。何やら日本版サマセット・モーム『月と六ペンス』といった感じである。 
横浜の港は南洋の夢につながる・・・。昭和17年中島敦パラオから送り込んだ『光と風と夢』は『まるで空が開けるような衝撃だった・・・』と後に作家となった多くの人がその当時の印象を語っている・・・。 

船はよく「貴婦人」に例えられるが、横浜には多くの人に愛され、大事にされている貴婦人が二人もいるわけである。この二人の貴婦人が辿った道は平坦なものではなかった、そのことを頭に思い浮べつつ眺めると貴婦人達は愁いをおびてさらに美しく見える。そして私の南洋への『夢』も広がる・・・。